2019年04月06日

セーフティネット

鏑木隆史、会社員38才。妻紗希子、娘さくら2才。共働きで世帯収入900万円、桜新町にある1LDKの中古マンションで暮らしている。勤め先は化粧品会社の人事主任。妻は家業の税理士事務所の事務手伝いで、仕事の日は娘を保育園に預けている。桜新町は紗希子の地元で、じーじばーばが一人孫を可愛がりによく出入りする。

若い頃の隆史は不安定だった。大学時代から音楽に熱心で、バンドや音楽仲間との付き合いに金と時間と心を費やしていた。生み出す音楽そのものの形はそこそこ納得のいくようになったが、気がつけば30才になっても一人前の稼ぎは得られず鳴かず飛ばずの状況にあった。プロの知り合いの暮らしぶりの現実も見ていたし、口には出せないが薄々自分の生活の軸を見直すべきか悩んだ。

紗希子との出会いもこの頃で、結婚年頃にもかかわらず一緒にいてくれる彼女に対する責任も意識するようになった。生活の変化は波で起きるもので、盗み聞きしていたかのように派遣社員として勤めていた会社から正社員のオファーがあった。

現在に至る。
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2019年03月10日

この瞬間にかける

10年磨いてきた焙煎の技、15年の研究と苦心で完成した抽出法、生涯をかけたコーヒー豆のブレンドでできた一杯のブレンドコーヒー。どうぞ、と小さな無垢のカップで私の前に出された。

香りを嗅ぎ、そのままカップのふちに唇を当てる。

「おいしい」

マスターに向けて発したわけではなく、ついつい口に出てしまった。わたしはとりわけグルメじゃない。おいしいと感じたのは店の雰囲気に言わされてる気もしなくもない。何はともあれ、心から美味しいと思えた。

「ありがとうございます」

マスターも自分に向けられた言葉なのかわからなかったようで、目を合わせず礼の言葉を空中にひっかけた。緊張が解けたのか、まもなくカウンター裏にあるスツールに腰をかけてスポーツ新聞を開き、足を組んだ。さっきまでの張りつめた雰囲気はいっきになくなり、紳士的なマスターが馬券売場のおじさんさながらの凡人に変身した。

冷めていくコーヒーをいただきながら、感動の瞬間は儚いものだと思った。明日はドトールでいいか。
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2019年02月24日

後悔

日差しと人通りの気配がする。おぼろげに意識がもどる。首と背中が痛い、多分ベンチ。ここは多分、新橋。いまは多分、土曜日。目をつぶったまま、情報の断片を組み合わせて事態を把握しようとする。無論、悪い予感が、する。最後の記憶はどこかのダーツバーだったか。

手の感覚が戻り、無意識にズポンのポケットに触れてみる。左に携帯電話、右は家の鍵。ため息をつく。拳で目ヤニをこすり落とす。

突然、猛烈な不安に駆られて一気に立ち上がって尻のポケットをさわる。財布、ない。ベンチに向かって周りを確認する。カバンも、ない。しゃがんでベンチの下も見てみるが、タバコの吸い殻が数本あるだけ。

まるでブラックホールを飲み込んだように胃がきゅーっと締まるとともに、一気に脳が活性化する。カバン、財布、書類、パソコン、客先の手土産(どうでもよい)。警察怒られない、会社怒られる、次どうすればいいか。まずは周りのゴミ箱を片っ端からさがすか、まずは警察か、いや、携帯電話あるしクレジットカード止めるか、いや番号暗記してないしどうしよう。まずは帰るか、いや、お金がない。

酒は怖い。
いや、酒を飲むオレが怖い。
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2019年01月24日

働き方改革

鈴木靖夫、27才独身。時は2573年。

システム系の派遣社員、副業で宇宙人への外交官をつとめている。子供の頃の夢はゲーム開発者だったが、近からず遠からずの職につけた。これといった夢はないが安定しているので良しとしている。

500年前と比べて世の中はとりわけ変わっていない。唯一あるとすれば宇宙人との交流が増えた。人類がこの宇宙で孤独でなかった発見は当時世の中を震わしたが、実は現在ざっと2,000以上の地球外文明が発見されている。発見、されているし、交流、もするのだが、いまひとつ深い関係性は成立していない。まず物理的な距離が遠く、最寄りのサフラン文明で500光年といわれている。お互い星を訪問する金と技術と時間を考えれば割りに合わず、用件もなければ交流するきっかけがまずないのだ。

そうとはいっても数百年毎になんらか正常な国交の示しを最低限記録するべきということで、政府はアルバイトベースで外交官を募集した。鈴木の大事な副収入となったわけである。応募資格は15歳以上で逮捕歴がないことだけだが、20年に一度に外交状況の報告が求められる。大概は記入欄に「以上なし」で十分で、おそらく提出を受ける役所でも読んでる人はほとんどいない。

これだけで毎年85万円もらえるのはなかなか美味しい話だ。
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2018年12月31日

ちょっと話があるの

長井弘作、33才独身会社員。このご時世に珍しく、社会人になって以来ずっと同じ会計事務所に勤めている。

大掃除の仕上げにフローリングの雑巾掛けをしながら、ぼんやりと去る歳を振り返っていた。今年は本当に仕事が忙しかった。ふと友人や家族とほとんど顔を合わせていないことに気づく。インターネットやメールは便利なもので、生活のリズムを一切崩さず近況を報告したり相手の状況もなんとなく伝わってくる。用事もない電話、直接会いたいという要望、最近元気といった曖昧な問いは、相当のことがなければしない。もっともその「相当のこと」すら140文字や写真やイベント告知で済ませることも可能になっていた。

来年は会社を辞めて、長年の夢だった南米アコンカグアの登山に挑戦しようと思っている。そのため婚約破棄し、家を引き払い足立区のワンルーム風呂なしアパートに引っ越して、全ての財産をトレーニングや必要設備に費やすことになる。

しばらく音信不通になるので、ひとまずツイートを作文することにした。

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今年もこれで閉店です。

お世話になった方々、今年もお世話になりました。みなさまの年越しが穏やかでありますよう心より祈っております。

来年もよろしくお願いいたします。

ヒナミケイスケでした
posted by ヒケ at 21:27| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする